2021.09.23
花摘 / writer
「作り手インタビュー」のお一人目はJINの製作現場を支えてくれている看板職人・作家の林先生(H-ART)。創作活動に入られた経緯や感動を生むモノづくりへの思いなどたっぷりと伺いました
ごく普通の会社員からまさかの看板屋に
ここまでハマるなんて当時は夢にも思いませんでした
もともとはフツーの会社員だったんですよ。組織の中では実力を発揮できない性格で…。ある時期から将来を考えるようになり「自分が好きなことはなんだろう?」と子供時代を振り返ってみました。そういえば図画工作だけは得意だったな、と。
そこで仕事しながら通信講座でレタリングやPOPを習うことにしました。日曜日には代々木の専門学校にも通って。その時に初めて「看板屋」という職業を知ったんです。
ひと通りの知識と技術を身につけて看板屋に転職しました。そこは「根性で仕事しろ」的な古いタイプの会社でしたから、徹夜したまま次の現場に向かったり、土砂降りの雨の中溶接やらされたり、ブルーシートの下で文字描きしたり、そんな毎日でした。でもその経験があるおかげで、今でもちょっとやそっとの過酷さじゃハートが揺るぎませんよ(笑)。
あるとき、結婚式場の現場に行きました。そこにはもう1社出入りしている看板屋があったのですが、使い終わった看板が置いてあるのをみて大きな衝撃を受けたんです。自分の知っている看板とまるでレベルが違う。
描かれている文字がとてつもなく上手い。
これだ! と電流が走りました。
すぐにその会社を調べて「入れてください!」と直談判しましたが、当然タイミングよく募集なんてしていなくて、そのときは「名前と連絡先だけ聞いておくよ」で終了(笑)。
ところが、しばらくして「ひとり空きが出たから来てみる?」と電話があり、もちろん勇んで入れてもらいました。でもここで自分にとって大きな転機が訪れます。一般的には「挫折」になるのかな?
その会社に所属している先輩の看板職人は、みんな広告美術仕上げ技能士など、超難関の資格を持っていて、賞までとるようなレベルでした。業界のオリンピックといわれる大会出場経験もあったり。それまで自分が知っていた「看板屋」とは格が違った。その中の1人で描き専門の先輩に教わっていたのですが、同じ土俵で勝負しても全然かなわない…と早くも見えない天井を思い知りましたね。
とはいえ、その気づきは決して自分にとってマイナス要素にはなりませんでした。それまでも「絵が得意だから」と美術部にいったら周りはもっとすごくて自分は下の方だった、というような経験をいくつもしてきたし。デキる人間じゃないことはよくわかっていて。
だから1番にはなれなくても、同業者に「すごい」と言われる存在になりたい、という気持ちはむしろ強くなりました。そのためには、ひとつのジャンルの中で競争するのではなく、いろんなことができる人間になろう! って前向きな気持ちが湧いてきたんです。
この世界に入ってからは、とにかく良いもの、すごいなと思える作品を見まくりました。
かつて青梅駅近くの住江町商店街が、町おこしの一環として映画看板をあちこちに飾っていました。「最後の映画看板師」と呼ばれ「板観(ばんかん)さん」と親しまれた大久保昇さんが描いた作品です。写真をたくさん撮ってきては研究しましたね。
昔は、画家が食べるために看板屋をしていることも多く、看板は立派なアートだったんですよ。会社の先輩たちが描いた映画看板をこっそり引っ張り出してきては眺めていたこともあります。
でもだんだん看板屋を取り巻く環境は変わっていきました。文字描き職人が一番偉くて、それだけやって食べている人たちが大勢いた時代もありました。当時は職人さんそれぞれに文字の描きグセみたいなものがあり、街に出ている看板をみると「あそこの会社の○○さんのだな!」とわかったものです。お客さんも「あの会社のあの人に頼みたい」という注文をしていました。
ところが時代の流れとともにカッティングシート(インクジェットプリンター)の波が押し寄せてきて、文字描き職人の仕事は廃れてしまいました。自分自身もその動きには逆らえず、新しい技術を使って大手の仕事を請け負い、安定した収入を得られるようになりました。でもそのうちに「俺がやりたかったことってこんなことじゃないよな」って気づいちゃったんです。
それで、かつて夢中になっていた映画看板を描き始めました。先祖返りじゃないけど、原点に戻ろうって。今だからこそ、逆にウケるんじゃないかと思って。やっているうちに、美大出身のウチのかみさんが面白がって。あるとき「こんなのあるよ」と造形の講習会を見つけてきました。1回5万円くらいする発泡剤の講習なんですが、東京まで受講しに行きました。そこで基本的なFRP(ガラス繊維強化プラスチックス)の技術も身につけて、あとは独学でスキルアップしていきました。
そうすると次の課題が出てきてしまい…。発泡剤で看板を作ったとしても、最後は塗装しますよね。その時の自分は普通に塗装することしかできなかったのですが、ディズニーランドやテレビで見る古びた建物、いわゆるエイジングってどうやるんだろう? と知りたくなりました。調べてみると、あれは看板屋のジャンルじゃなくて塗装業界の技能、しかも特殊な技能ということがわかったんです。
早速その特殊技能の講習を見つけ申し込もうとしましたが、「どこの会社ですか?」「塗装の協会の人じゃないとダメです」と断られて。でもどうしてもその技術を習得したいという気持ちを伝えたら、担当の方がなんとかして受講できるよう配慮してくれたんです。
エイジングって元々はヨーロッパの文化で、ベルサイユ宮殿の大理石も、じつは塗装だったりします。わざと本物ではなく塗装にするなんて不思議でしょう。日本だとそれは「ニセモノ」とマイナスイメージになるけど、彼らにとってそれは「アート」。マイナスどころか付加価値がある。この経験がきっかけで、造形と塗装を融合させた面白い看板を作り始めました。新しい世界の扉が開いたら、またかつてのような気持ちが蘇ってきたんです。
独立して21年になります。
いま仕事がすごく楽しくて、このままずっと続けたいと思っているけれど、現状維持というわけではありません。やりたいことがまだまだいっぱいあるから。最近では、若い職人がレジンの研究をしている姿に刺激されて興味が再燃しました。
これまでの仕事でとくに印象に残っているのは、ある大学のボート部OBからの依頼です。50代くらいの方からでしたが、ボート部に保存してあった古くて真っ黒な木の看板を、なんとか再生してもらえないか、と。すでに10件以上の看板屋に相談したけど、すべて断られたらしくて。
大切な思い出の品をダメにする可能性もあるので、ウチも最初は断ったんですよ。それでもなんとかやってみて欲しいと言われて。ペンキの専門家に相談したり、京都や奈良で黒くなった建物をきれいに再生する技術があるので、それを調べたりして。依頼者の想いや熱量をすごく感じたので、一生懸命に取り組みました。
そして最後には、ものの見事にきれいな看板に生まれ変わらせることができました。想像していた以上に依頼者が感動してくださり、関わった人を集めて看板復活祝賀会まで開いてくれました。あの経験は間違いなく自分の看板人生におけるターニングポイントですね。
後から知ったのですが、その看板の文字は、尊敬する人の字だったらしい。だからどうしても残したかった、と。そのとき心底看板屋をやってきてよかったと思いましたね。看板を通して、その人の人生や歴史に関われるんだ。看板で人をここまで喜ばせることができるんだ。と、
じつは日本酒が好きなんです。
日本酒って、飲んでいると「どんな土地で、どんな蔵人が作っているんだろう」と、背景やストーリーを想像せずにはいられなくなりませんか。それと一緒で、ハンドメイドでつくった看板を見ると「どんな人がつくったんだろう」と自然に想像を巡らせてしまいます。そういう看板が本物だと思うんですよね。
とくに木の看板なんて、呼吸しているし生きている感じがする。一番面白いけど、正直一番難しい。何を考えているのかわからない。どっちにそるんだ? とか心の中で話しかけたり。生き物とのやりとりなんです。つくったあとも、このあとどうなっちゃうんだろう…と考え込むことがありますよ。それも酒造りと似ています。
昔、絵画教室の発表会に出品したときのことです。自分が描いた絵の前にじーっと佇んで「この絵ってどういう人が描いたんですか」って聞いてきた人がいたことを後から知りました。もしかすると、あのときに抱いた感情が、看板屋をやっている自分の原点なのかもしれません。
作り手インタビュー|看板職人・作家林さん